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第13話  神崎って誰

ผู้เขียน: 菊池まりな
last update วันที่เผยแพร่: 2026-09-06 19:00:14

 木曜日の夜、達哉が沙耶のラップトップを覗き込んだ。

 沙耶は気づかなかった。神崎のブランドブック用のカラーパレットを調整していて、画面から目が離せなかった。テラコッタと深いネイビーの組み合わせ。彩度を少し落とすか、このままにするか。ほんの数パーセントの違いが、印象を大きく変える。

 「それ、誰の仕事?」

 達哉の声が、すぐ後ろから来た。

 沙耶は肩が跳ねた。気配に気づいていなかった。

 「神崎さんの案件」と答えた。自然に答えた。隠す理由はない。

 「神崎って、男?」

 「……IT企業の経営者の方で、ブランディングの依頼をいただいてる」

 「男なんだ」

 達哉はソファに戻りながら言った。それだけだった。

 沙耶は画面に向き直った。カラーパレットの続きをやろうとした。でも指が、少し止まった。

 何かが変わった気がした。部屋の空気が、数度下がったような。

 金曜日の朝、達哉が出勤する前に言った。

 「昨日のやつ、いつまでかかるの」

 「来週中には」

 「ふうん。最近そればっかりだな」

 沙耶は味噌汁を椀に注ぎながら答えた。

 「大きい案件だから」

 「大きいって、金額が?」

 一瞬、迷った。正直に言えば何か言われる気がした。でも嘘をつく理由もない。

 「これまでで一番大きいかな」

 達哉は卵焼きを箸でつまんで、口に入れた。

 「へえ」

 何かを言いかけて、やめた気配があった。

 沙耶はその「やめた」が気になったけれど、聞かなかった。聞いても、いい答えは返ってこない気がした。

 土曜日の午後、神崎からオンライン打ち合わせの依頼が来た。

 「来週月曜日、十四時はいかがでしょう。ブランドブックの方向性を一度直接話せればと思っています」

 沙耶は返信しようとして、ふと考えた。

 月曜日の十四時。達哉は仕事に出ている。問題はない。

 問題はないのに、なぜ考えたんだろう。

 沙耶は「承知しました」と返信して、カレンダーに予定を入れた。達哉には、言わないでおこうと思った。

 言わない理由を、自分の中で確認した。

 言って何か言われるのが面倒だから。

 それだけだった。

 隠しているのとは違う。でも——わざわざ言わないことが、いつの間にか増えていた。

 日曜日、達哉が突然言った。

 「来週、飯でも食いに行くか。お前が行きたいとこ、どこかある?」

 リビングでテレビを見ていた沙耶は、少し驚いた。達哉から「どこかある?」と聞かれることは、珍しかった。

 「どこでもいいよ」と答えそうになって、止まった。

 どこでもいい、は本当のことではない。行きたい場所ならある。先月、彩乃が話していた駅前のイタリアンが気になっていた。

 「駅前に新しくできたイタリアン、気になってて」と言った。

 「ああ、あそこか」達哉は少し考えた。「まあ、いいけど」

 乗り気ではなさそうだった。でも否定もしなかった。

 沙耶は「じゃあ予約してみる」と言った。

 言ってから、少し自分に驚いた。「どこでもいい」と言わなかった。自分の行きたい場所を言えた。それが夫婦の会話として当然のことでも、沙耶には小さな一歩だった。

 月曜日の十四時、神崎とのオンライン打ち合わせが始まった。

 神崎は最初の五分で、先週送ったフィードバックへの沙耶の返答を読んだ、と言った。

 「返答の中に、一箇所だけ反論がありましたね」

 沙耶は少し緊張した。

 「あの箇所は、こちらの意図を説明できていなかったかもしれません。修正します」

 「いえ」と神崎は言った。「岸谷さんの判断の方が正しいと思いました」

 沙耶は画面を見た。

 「……そうですか」

 「ブランドカラーの件です。僕はもう少し明度を上げた方がいいと思っていたんですが、岸谷さんが『このブランドには落ち着きが必要で、明るくすると軽くなりすぎる』と書いていた。見直したら、その通りでした」

 自分の意見を言った。それが正しいと言われた。

 たったそれだけのことが、沙耶にはまだ少し、信じにくかった。

 「ありがとうございます」と言った。

 「意見を言ってくれると助かります。僕の判断が常に正しいわけじゃない」

 神崎はそれを当然のことのように言った。

 沙耶はメモを取りながら、この感覚を言語化しようとした。うまくできなかった。でも何か大事なことを、今確認している気がした。

 打ち合わせが終わって三十分後、達哉から短いメッセージが来た。

 「今日、打ち合わせあったの?」

 沙耶は画面を見た。

 なぜ知っているんだろう。

 カレンダーを確認した。達哉と共有しているカレンダーに、予定を入れていた。「オンライン打ち合わせ KDL」。

 共有カレンダーに入れたのは沙耶自身だった。隠していたわけではない。でも達哉がそれを確認していたとは思っていなかった。

 「あったよ。神崎さんのブランドブックの件で」と返した。

 しばらく、返信が来なかった。

 十分後。

 「そう。何時間?」

 「一時間くらい」

 また間があった。

 「オンラインって、どこでやってるの」

 沙耶は画面を見た。

 どこで、という質問の意味を考えた。場所を聞いている。家でやっていると知っているはずなのに。

 「家でやってるよ。いつも」と返した。

 「そう」

 それで終わった。

 沙耶はスマートフォンを置いた。

 何か変だ、と思った。具体的に何が、とは言えない。でも達哉のメッセージは、業務確認のように見えて、確認したいのは業務ではない気がした。

 監視、という言葉が頭をよぎった。

 すぐに打ち消した。大げさだ、と思った。

 でも──打ち消した後も、その言葉は薄く残った。

 夕飯の時間、達哉は普通だった。

 いつも通りテレビをつけて、いつも通り食べて、いつも通りスマートフォンを見ていた。昼間のメッセージのことは、何も言わなかった。

 沙耶も言わなかった。

 食器を洗いながら、沙耶は考えた。

 神崎との打ち合わせは、仕事だ。やましいことは何もない。達哉に隠しているわけでもない。共有カレンダーに予定を入れていた。

 なのにどうして、今夜の夕飯が少し息苦しかったんだろう。

 水を止めた。

 キッチンが静かになった。

 リビングからテレビの音が聞こえてくる。達哉の気配がある。

 この息苦しさは、何かを境に少しずつ変わってきた気がした。沙耶が仕事で評価されるようになってから。神崎という名前が沙耶の口から出るようになってから。

 以前の息苦しさは「私が悪いのかもしれない」という方向に向かっていた。でも今夜の息苦しさは、少し違う。

 私は何も悪くない、という感覚が、先にある。

 その上で、息苦しい。

 ふきんで手を拭いて、リビングに戻った。

 夜、布団に入って、沙耶はぼんやりと天井を見た。

 「神崎って、男?」

 達哉の声が、耳の奥に残っている。

 聞かれた瞬間、沙耶は何かを感じた。あのとき何を感じたか、正確に言葉にできなかったけれど──今ならわかる気がした。

 怖かった、のではなかった。

 面倒だ、と思ったのだ。

 達哉の「男?」という問いに込められているものが、透けて見えた。心配でも、嫉妬でも、愛情でもなく──支配の確認。お前の動きを、俺は把握している。そういう意味の問いだと、沙耶の身体はもう知っていた。

 以前の沙耶なら、その問いに怯えた。

 今夜の沙耶は、面倒だと思った。

 その違いが何を意味するのか、まだはっきりとはわからない。でも何かが、変わってきている。

 達哉の寝息が聞こえ始めた。

 沙耶は目を閉じた。

 また、あの既視感が来た。

 「神崎って誰」──この言葉、知っている気がする。前にも聞いた気がする。どこかで。いつか。

 でも夢でも記憶でもない。

 ただ、知っている。

 沙耶はその感覚を追いかけようとして、途中で眠りに落ちた。

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